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言いたいことが言えない!論理的主張をしたら怒られる日本の大学

 

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こんにちは、パリノメモの筆者をやっているジュロウです。ツイッターはこちらです(@Parisnomemo_)。

 

早稲田大学を卒業したあと、現在フランスの大学院で荒波にさらされながら生きています。

 

日本とフランスの大学機関のどちらにも所属をしてみた結果今思うことは、日本の大学って「議論しづらい!」ってことです。

なぜなら、論理的な意見を主張したら嫌味なヤツ、理屈っぽいヤツ、面倒くさいヤツっていう扱いをされて、それ以降なんだか発言をしにくくなるからです。

 

 

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大学は理屈をこねる場所

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小・中・高・大と、ある種の一連の流れができてしまってるため、全部同じような機関だと思ってしまいがちですが、とくに大学だけは全然性質が違います。

というのも、教育機関である小・中・高とは少々違って、大学は「研究」をする機関であるという性質も加わるからです。

そう、大学は「教育機関」であると同時に「研究機関」でもあるのです。先生は「教授」と呼ばれるし、学生生活の最後の課題は「卒業研究」ですよね。ある一定レベルの研究ができるようになりましたよってことを提示して卒業することができるのです。

 

研究機関となると、「論理」というものがめちゃくちゃ重要視されます。

 

「しかし」・「だから」・「つまり」・「一方で」・「したがって」……これらの接続詞を駆使して、文章と文章をつなげて段落を作り、段落と段落をつなげてをつくり、項と項をつなげてをつくり、章と章をつなげて論文を完成させるわけです。

大学では、「論理」が正義であり、論理的でない主張にはむしろマイナス評価が与えられるのです。

あなたの主張と、そのデータ、なんの論理的関連性もないですよね!!…って感じで。

 

仲間のメンツを気にして意見がいえない

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そんな「論理」が重要視される大学機関で、日本の「思いやり&仲良し」文化は非常に邪魔です。

もちろん、「思いやり&仲良し」文化自体を悪いこととは思いません。仲間同士、信頼関係を築いて、楽しい時間や悲しい時間を共有してさらなる信頼関係を作り上げる、最高だと思います。ボクも辛いときは何度も仲間に助けられました。

でも、論理的やり取りをする場所では、この「思いやり&仲良し」文化は邪魔なんです。

 

議論をしていると、意見や質問は、どうしても冷たい表現になってしまいます。

 

「1章と2章のつながりがあまり見えなかったのですが、もう一度説明してもらってもいいでしょうか」

「◯◯と主張されましたが、たとえばボクの知っているこの例ではその主張は当てはまりません。どう思われますか」

「序論で定義した内容が、結論ではいつの間にかちょっと異なる定義で使われていると考えます」

 

冷静に、客観的に、指摘をしなくてはならないため、血の通ってないストレートな表現になります。

でも、これを本当にやってしまうと、「なんだあいつ思いやりのないやつだな」、「がんばって発表したんだからそんなに厳しく言わなくてもいいじゃないか」となんだか仲間を尊重できてない人扱いをされてしまうことが多々あります。

 

これでは論理的な議論ができません。

 

教授のメンツを気にして反論ができない

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仲間同士だけでなく、なんと教授との関係性も論理的な議論の場を妨げる原因となってしまいます。

敬い」文化があるからです。

 

大学において教授は「偉い人」であり、授業の場では「リードをする人」とされます。教授が言ってることは正しいし、教授が言ってることは絶対的だ、そんな風潮ありませんか?

でも、教授だって、現在進行系で研究を進めている人間です。研究に完成がない以上、教授の主張にだって必ず穴はあるわけです。

 

それなのに、なぜか日本の大学には、教授に真正面から反論をするということが抑圧される空気があります。

仮により論理的な意見を言ってしまったら、偉いとされる教授のメンツが保たれないからです。

 

いやいや、本当に何十年もかけて研究に取り組んできた教授ならば、大抵の意見には対応できるはずだし、もし仮に教授を論破するほどの主張が出てきたら、むしろそれはありがたく頂戴すべき貴重な意見でしょう!

 

大学において、教授こそもっとも論破されるべき人間であり、教授こそもっともその意見に耳を傾けなければいけない人間なのだと思います

 

議論の場とプライベートは分けよう

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仲間のメンツを気にするのも、教授のメンツを気にするのも、すべて、日本人が「議論の場」と「プライベート」を分けられていないことが原因だと思います。

 

フランスで学生の論文の口頭試問審査会に参加すると面白い光景を目の当たりにします。

まず、修士学生や博士学生が自分の論文を簡単に発表して、それに対して教授陣がこれでもかとくらい冷静な意見を突っ込んできます。あたふたしながらも、卒業がかかっている学生はそれに対してがんばって反応をします。

昼休みになり、昼食を取る時間になると、みんなで近くのビストロやブラッスリーに向かいます。教授も学生も全員一緒にです。

そこで、何分か前まで冷徹な鬼のごとく血の通わない議論をしていた人たちが、ワインやビールをちょっと飲みながら楽しくプライベートの会話をするのです。

なんだこれはと思っていると、また口頭試問の時間。みんなまた血の通わない冷徹な議論マシーンに豹変しています。

すごいなこの人たち…」、そう思いました。議論の場とプライベートを完全に分けきっているからです。議論で言った冷徹な意見は、あくまで仕事として言ったもの、プライベートでは仲良しな知り合いですっていうそんな関係を築き上げているのです。

 

日本では、どうしてもこの切り替えをするのが難しくて、議論の場にまで、プライベートの仲良し&思いやり&敬い文化を持ち込んでしまっているから、どうしても論理的な意見というものが受け付けられないのではないでしょうか。

 

でも、そんなことをしていては、より良質な意見というものが生まれない気がします。

なにか問題の解決策を探っている議論の場でも、いちいち相手のことを思いやっていては、最善の策というものにたどり着かないのです。

もちろん、日本は日本ですから、全て他の国のまねごとをしろとは思わないけど、でも、こと議論に限っては、より良質な案が出てきたほうが良いに決まってるから、プライベートと議論の場を完全に分けられるスタンスをとるようにしたほうがいいのではないかとボクは思っています。

みなさんの血の通っていない冷徹な意見も聞いてみたいところです。

 

 

 

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